1946年 紺屋町付近
(国土地理院空中写真から作成)
便覧には、「駅と県庁を結ぶ4つの通り」以外にも32の通りの町列が掲載されています。これらの通りには官公署等は少なく、商店、飲食店などが多くを占めていました。
ここでは、それらの通りにあった特徴的な施設や団体のうち、資料を入手できたものについて概要をまとめました。
ここで他街路とは、図1に赤色の文字で表した通り以外の、①~㉜の通りです。
図1 便覧に掲載された通りの一覧(出典の概略トレースと一部改変)
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー所蔵「前橋市街全図」(1910))
1)竪町通り
前橋勧工場(西側)
資料*1)によると、概要は次のとおり。
勘工場は見本展示即売を原則として、正札販売陳列方式で、商品を一つ一つ手に取って確かめることができ、品質が保証されており、掛け値がしていない、いわゆる「総合店」のようなものであった。~前橋勘工場は明治21(1888)年1月に開業し(野口家文書)、~勘工場の経営で特徴的なことといえば、建物の持ち主がいて、出品者を募集し、出品者から保証金および出品料をとっていることである。今日のショッピング・センターの形式を考えてもらえばよい。
*1:群馬県史 通史編 8 (近代現代 2 産業・経済),pp274-275,1989.
2)桑町通より横山町立川町を経て弁天通に至る
前橋積善会(弁天通り西側)
資料*2を要約すると、次のとおり。
・明治13(1880)年11月向町にて同志12名が救世のための団体を組織することを協議し、慈善事業を開始。この会を「積善会」と称するようになった。
・その後、大火の義援金の拠出や生活困窮者の医療対策として施療券の発行などを行った。
・明治34(1901)年積善青年会、積善婦人会等を組織。
・昭和2(1927)年社団法人に改組、同3(1928)年宗甫分に厩橋病院を建設。同9(1934)年江木に分院を設置し、同11(1936)年本院を江木に移して分院を合併。結核病舎も建設。厩橋病院は現在も積善会が運営している。
*2:前橋市史 第4巻,pp1087-1090,1978.
救世軍前橋小隊(弁天通り西側)
資料*3の関連箇所から抜粋要約すると、次の通り。
・救世軍前橋小隊は明治34(1901)年6月弁天通りで活動を開始。
・上毛孤児院創立者が創立した上毛慈恵会養老院の運営の行き詰まりに際し、救世軍前橋小隊は献金や寄付金の一部を割いて援助。養老院は責任者の変遷を経た後、一時前橋小隊の青年兵士が院長を務めた。
・なお、同養老院は大正7(1918)年4月に市内芳町に院を新築、名称を「前橋養老院」と改めた。「養老院」の名称は全国最初のもの。
*3:前橋市史 第4巻、pp1095-1096,1978.
立川町官舎(弁天通り東側)
「立川町官舎」そのものの資料は発見できませんでしたが、資料*4)には、以下の記述があり、これに対応する立川町の官舎をさしているようです。
・「明治9(1876)年県庁を置かるるや本地の有志者は官吏の邸宅に充てんが為め本町、相生町、榎町、立川町、神明町等に数多の官舎を建築して之れに貸与せり」
*4:前橋市史 第4巻,p166,1978.
3)片原通り
4)横山町通り
前橋青年倶楽部(北側)
同倶楽部の設立については、資料*5)、*6)に次の記載があります。
・野間清治と友人が3年の頃、師範学校と前橋中学の生徒(注:当時、仲が悪かった)で名士を招聘し、その卓説を聞いて人格の向上に努めようではないか」と作り上げたのが前橋青年倶楽部であった。知人のオルブレヒト牧師(注:北曲輪町に住む元ドイツ騎兵大佐)に相談したところ、招聘の手紙の執筆、費用、宿舎などを提供してくれた[資料*5を要約]。
・(冒頭「3年の頃」との記載がある)その頃、前橋中学~と~師範の方からは私ともう一人~の発起で、前橋青年倶楽部というのを設けた。海老名弾正先生とか、徳富蘇峰先生とか、松村介石先生とか、島田三郎先生とかいうような偉い先生方に、だんだんお出を願って、講演して戴いた。[資料*6を要約]。
*5:中村孝也,野間清治伝,pp161-164,1944.
*6:野間清治,私之半生,p46,1959.
また、同倶楽部の講演等については、次の記録があります。
・前橋直言読者会を前橋青年倶楽部で開会し、出席者は教育家、商人、銀行家、記者で盛んな議論が行われた[資料*7、4/2付けの発行で記事の日付から3/18夜開催されたらしい]。
・1905(明治38)年3月15日、鑑三は前橋青年倶楽部の開催する演説会で「思想の進歩」の題目で話をした。会場は臨江閣、来聴者は百七八十名。翌16日は県立前橋中学校で講演[資料*8を要約]。
*7:直言,2(9); 1905・4・2,直行社・平民社.
*8:一倉喜好,近代群馬の行政と思想その2,p119,1985.
芸妓取締所(北側)
群馬日報(明治20(1887)年3月15日)に次の記事が掲載されています。
・紺屋町と榎木町の芸妓取締所(見番)の事につき、先頃より少し葛藤ありしと聞たるが、其後協議の上取締規則を改正して、去月の末前橋警察署へ願い出したるに、去十一日聞届け難しとの指令により、又々総芸妓連印にて取締り所を設置したき趣きを、願ひ出したる由なり[資料*9)]
また、前橋市史の前橋市年表には次の記載があります。
・明治10年(1877)5月、前橋に芸妓見番(芸妓取締所という)できる。前橋の芸妓の初見は明治4年頃といわれる[資料*10)]
*9:群馬県史資料編19 (近代現代3新聞記事収録),p623,1979.
*10:前橋市史第7巻(資料編2),pp1127-1128,1985.
5)立川町通り
株式会社前橋商業銀行(北側)、写真1
資料*11)から概要を抜粋すると、次の通りです。
明治31年9月の設立で、業務開始の場所は前橋市一毛村(現千代田町3丁目)であった。前身の共同合資会社の好業績を受け継いで、すべり出しは順調であった。~この銀行も資金運用は繭糸の製造販売業関係に向けられるものだったので、変動する糸価の動きいかんによって、業績も浮沈を免れない事情に置かれていたようである。~この銀行は、大正10年7月1日群馬県知事による銀行合同勧奨に応じて群馬銀行(第一次)と合併し、群馬銀行一毛町支店となった。
*11:前橋市史 第4巻,pp884-885,1978.
写真1 前橋商業銀行(出典のp61該当箇所を抜粋表示)
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー所蔵「前橋市案内」(1910))
6)繭市場通り
7)榎町通り
8)通称袋町通り
大弓場(南西側)
前橋の大弓場がどのような施設だったかわかりませんが、新潟県の記録に次の記述がありました。
・明治二十四年十月旧藩士~大弓場を設け弓は四分半より八分迄を備ひ矢十本を一銭と定め爾来隆盛に趣き神社祭礼或は日曜は一層賑合り金星の競争或は夜的あり或は場主より金星懸賞あり或は同盟して金星を射て神社へ奉納するあり夏期の候より初秋の頃最も繁盛せり~
*12:宮川頼徳,高田栞 二編,p16,1901.
9)紺屋町通り
上毛貯蓄銀行(南側)
資料*13)から抜粋要約すると、次の通りです。
貯蓄銀行条例に基づいて明治30(1897)年3月15日設立。開設場所は紺屋町34番地。大正10(1921)年4月貯蓄銀行法の公布に対応し同年7月1日前橋商業銀行とともに群馬銀行(第一次)に合併。群馬銀行紺屋町支店となる。
*13:前橋市史 第4巻,pp882-883,1978.
10)通り名なし(注:横山町通と紺屋町通をつなぐ通り)
11)馬場通り
私立明治裁縫学校(南側)
・資料*14)掲載の明治37(1904)年12月の生徒募集広告によると、明治29(1896)年9月上毛裁縫伝習所として設立され、その後規模を拡張し明治33(1900)年5月29日に認可を得て明治裁縫学校となりました。なお広告では校名の脇に「裁縫教員養成所」の記載があります。
・資料*15)には、明治裁縫学校設立の趣旨が掲載され、校主は鈴木宗十郎、校長は鈴木たま。
・資料*16)によると、明治29(1896)年5月創立。設立者・校長:鈴木多満、大正15(1926)年末現在で生徒数133名と記載されています。
*14:松井親民, 大久保茂太郎,商業顧問:附・商業家要綱,1904.
*15:関八州名士肖像録,p354,1904.
*16:前橋市史 第4巻,p543,1978.
前橋音楽隊本部(馬場通り南側、本町裏)
資料から概要を要約すると、
・前橋音楽隊は明治30(1897)年に組織され、根岸写真館に本部を置く。日露開戦以来、応召軍人の送迎及び戦病死者葬儀等に音楽隊の需要が増している(資料*17)。
・後に根岸写真館館主は三男(前橋音楽隊楽長)とともに浅草区に居を構え女子音楽隊を組織した(資料*18)。
・資料*19)の記録に、1897年7月本町に前橋少年音楽隊組織される、との記載がありますが、音楽隊本部との関係は不明。
*17:前橋繁昌記,p93,1907.
*18:婦人雑誌,21(10),p19,1906.
*19:前橋市史 第7巻(資料編2),p1137,1985.
前橋球友倶楽部(馬場通り南側、本町裏)
資料*20)によると、当市有志の設立で本町農工銀行の裏にあり、球突台2個を備えた娯楽場。評議員には萩原朔太郎の父密蔵氏の名がある、とのこと。
*20:前橋繁昌記,pp283-284,1907.
12)下町通
13)萱町通
14)芳町
15)片貝町
宗務所(北側)
便覧には「天台宗宗務所」とあります。当時八展通り西側にあった天台宗明聞寺に関連して、ここに宗務所があったのでしょうか。詳細は不明です。
講義所(北側)
資料*21)によると、
・聖公会ではこの頃、明治32(1899)年礼拝堂の新築を開始し、明治35(1902)年4月上旬「前橋聖マッテヤ教会」が落成。
・この建築期間中には、紅雲分、北曲輪町、堀川町、片貝町等に講義所を設け伝道活動を行っていた。
とのことで、教会落成後にも片貝町の講義所が残されていたようです。
*21:北関東教区70年史,pp179-183,1966.
16)中川町
17)新町
精糸天原合名会社(北側)
明治12(1879)年9月、前橋の新町(朝日町2・3丁目)に創設された改良座繰製糸会社 天原社が明治26(1893)年に改称した会社(資料*22)。同資料では「前橋案内」(明治31(1898)年刊)を引用し、当時の前橋市中で昇立社についで業界第二位、輸出生糸製造の大手であったことが記載されています。
*22:前橋市史 第5巻,pp1541-1559,1984.
18)連雀町通
県社八幡神社(東側)
資料*23)を抜粋要約すると、
創建については明確な史料もなく、由緒もはっきりしないが、少なくとも平岩氏以下、近世の前橋城主は歴代、神領五十石を寄進するのが慣例であり、前橋の総鎮守としての信仰がすでに成立している。「直泰夜話」によると、もと前橋の南郊~天川原にあったので、その付近を八幡林とよんだという。現在地に移った時期は明らかではないが、大胆な推定をすれば~厩橋城の築城に伴って、天川原村分の鎮守が総鎮守として移されたのではなかろうか(注・現在八幡宮は円墳のうえに建てられている)。
また、資料*24)によると、「直泰夜話」は前橋城主十五万石酒井重忠公が慶長六年移封されてから九世の孫、忠恭公の寛延二年正月播州姫路に転ずるまでの一五十年間に亘る酒井家及び所領の制度史実を記述したもの[同書「まえがき」を抜粋]。
*23:前橋市史 第3巻,pp4-5,1975.
*24:宮下藤雄,直泰夜話,1966.
19)相生町
20)相生町より田中町(歌舞伎座)に至る
前橋歌舞伎座(西側)
資料*25)によると、
・明治33(1900)年10月2日に前橋市田中町に新築された「前橋歌舞伎座」の舞台開きが行われた。当日は午前9時半から開場し、主な役者は成駒屋中村福助、片岡市蔵、尾上栄次郎、坂田半五郎などで、だしものは「伽羅先代萩」、「石橋」、「妹背山妹庭訓」などであった。~本格的な歌舞伎舞台として設計されたので前橋の名物となった。しばしば東京歌舞伎の一座の興業がもたれ、前橋市民の娯楽施設として親しまれていた。やがて明治39(1906)年高崎の業者に譲渡移転され、「高崎高盛座」となり、こんどは高崎市民に親しまれるようになった。
・同書p496によると明治35(1902)年の前橋には、常設劇場が3、席亭が4ありました。
・資料*26)に収録されている「川合太郎日記「摘要録」抄」には、敷島座参観、愛宕座参観、寿亭参聴、大相撲参観、歌舞伎座観劇などの記録があります。
・国書データベースには、明治年間の辻番付に前橋歌舞伎座の記録が掲載されています(ページ33of40)。
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100292252/1?ln=ja
*25:前橋市史 第5巻,p495,1984.
*26:前橋市史 第7巻(資料編2),pp545-552,1985.
官舎(東側)
弁天通り東側の「立川町官舎」の項で示したように、前橋市史第4巻p166には、以下の記述があり、これに対応する相生町の官舎のようです。
・「明治9(1876)年県庁を置かるるや本地の有志者は官吏の邸宅に充てんが為め本町、相生町、榎町、立川町、神明町等に数多の官舎を建築して之れに貸与せり」
21)田町通
22)田町及び堀川町通
23)田町(西側)田中町(東側)通
24)利根橋通南曲輪町石川町を経て紅雲分に至る
前橋中学校(西側)、写真2
資料*27)から要約すると、
明治10(1877)年9月第一七番中学利根川学校として開校。明治12(1879)年群馬県中学校、明治33(1900)年4月に群馬県前橋中学校と改称。
*27:前橋高校八十七年史上巻,pp14-388,1964.
写真2 前橋中学校(出典のp15該当箇所を抜粋表示)
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー所蔵「前橋市案内」(1910))
徴兵保険会社(西側)
資料*28)を抜粋要約すると、次の通り。
誕生から満15才までを被保険者とし、契約にあたっては身体検査を要しない。入営した人には保険金を支払い、入営しなかった人にはそれまでに支払った保険料総額が払い戻される保険。
*28:保険毎日新聞「みちくさ保険物語」044 ,https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/30594/0911904401.pdf
利根橋(西側)
資料*29)を抜粋要約すると、次の通り。
県庁が前橋に置かれ、利根川の西側地域との往来が増える中、前橋が工事費の一部を寄付するとして県に働きかけ、県は明治17(1884)年の県会に予算を提出。明治17・18年の継続事業として工事を開始。明治18(1885)年6月完成。
利根橋の完成はアメリカニューヨークの雑誌に掲載されたとの記事が上野新報に掲載されている。この後、明治28(1895)年6月に新しい利根橋が架けられたが、明治29(1896)年7月洪水のため落橋。新たに明治29年11月9日の県議会定例会で予算提案。明治34(1901)年8月21日に新しい利根橋が竣工。この橋が、昭和38(1963)年に撤去されるまで親しまれた。
*29:前橋市史 第4巻,pp966-978,1978.
群馬県監獄署(利根橋通南側)
資料*30)によると、
・明治21(1888)年1月東群馬郡宗甫分村(明治34(1901)年4月前橋市に編入)に新監獄を建築し前橋監獄と称す。
・明治23(1890)年10月官制改正により前橋監獄を群馬県監獄署と改称
・明治36年3月監獄官制改正により司法省所管に移り前橋監獄と改称す
・大正11年10月官制改正により前橋監獄を前橋刑務所と改称す。
*30:前橋刑務所一覧,pp1-2,1928.
25)曲輪町通より神明町(竪町裏)に至る
前橋税務所(西側) ※便覧では「税務所」と表記されていますが、官報では「税務署」と表記されています。
・官報第4018号(明治29(1896)年11月18日)で前橋税務署長の辞令が発出されており、この時設置されたらしい。
・官報第8067号(明治43(1910)年5月16日)大蔵省告示第77号で前橋税務署を明治43年5月22日前橋市田中町67番地に移す旨記載がある。この移転が、「明治末期の中心市街」で引用した前橋市街全図(1910)に反映されている。
柔術指南(東側)
資料*31)によると、
・弘道館関口道場は講道館長嘉納治五郎師範にご命名いただき関口孝五郎先生が明治三十三年三月に前橋市に建設された柔道場で、爾来約八十年、今なお建設の精神が継承されて地方文化の発展に大きな足跡を残して今日に至っていることは高く評価されなければならない。
・明治三十三年三月講道館柔道の普及発展と健全な青少年の育成を念じて前橋市北曲輪町~地内に道場を開設された。
・これこそ嘉納師範ご命名の弘道館で名実共に群馬における講道館柔道の始祖であり、その中核として活躍する基礎がなったのである。(資料抜粋)
・前橋市では関口杯が催されている。関口杯とは、「本県柔道界の今日の基を築いた故関口孝五郎先生と故関口林五郎先生父子の功績を称え、その名を冠す。」(資料*32より)
*31:柔道,50(9),講道館、pp31-34,1979-09.
*32:ぐんぱる,106,2022.http://www.sekkotuin.or.jp/download/documents/gunpal106.pdf
26)神明町二の小路
27)細ヶ澤町及岩神新道
上毛馬車鉄道株式会社(細ヶ沢町東側)
資料*33)を抜粋要約すると、次のとおり(「停車場通り」ー「馬車鉄道待合所」のほぼ再掲)。
・明治22(1889)年、岩神村に本社を置く民間運輸業の会社として上毛馬車鉄道株式会社が創設され、前橋細ヶ沢の北に岩神停車場を置き、現在の国道17号の路面にレールを敷いて渋川の新町の停車場の間を結んだ。前橋駅と岩神停車場の間は一般の馬車で連絡した。
・明治39(1906)年7月に前橋馬車鉄道株式会社に社名が変更され、細ヶ沢と前橋駅の間も鉄道で結ばれた。
・明治42(1909)年10月9日に利根発電株式会社の営業開始とともに電化され、前橋電気軌道株式会社と名称変更された。
・昭和2(1927)年東武鉄道株式会社の手に移り、昭和28(1953)年に運転休止、同29(1954)年廃線。
・資料中「前橋繁昌記」の引用では、「四万草津伊香保の温泉旅人みな比に経由す」とのこと。
*33:前橋市史 第4巻,pp1052-1056,1978.
人力車詰所(東側)
直接的な資料は発見できませんでしたが、停車場通りにある「人力車組合駐車所」に類似した小規模な施設があったのかもしれません。
あるいは、資料*34)の小田原に関する記事の中で「停車場前人力車詰所は四間に二間半なる平屋」とあり、これに類似した小規模の平屋の建物と人力車が置かれていたのかもしれません。
*34:大正十二年長野県震災誌:関東震災と長野県,p495,1929.
28)細ヶ澤の二
29)小柳町
劇場柳座(東側)
資料*35)から抜粋要約すると、次の通り。
・小柳町にあった愛宕座(愛宕座株式会社:敷地1300坪、舞台180坪、廻り舞台で、桟敷桝の平土間観客席があった)が明治31(1898)年春に敷島座株式会社に買収され、明治35、6年頃「柳座」と改称。大正12(1923)年2月の慈善興行では、その益金が積善会へ寄付された。
・昭和4(1929)年6月22日には、県と上毛新聞社が竹久夢二、小松清、福田蘭童、照井栄三、西条八十、松岡譲、麻生豊、田中比左良、生方敏郎、新居格、直木三十五、翁久允などの名士を赤城山に招き、その記念の「漫談と音楽の会」が、柳座で催された。
*35:前橋市史 第5巻,pp493-494.1984.
30)小柳町広瀬川河岸
精糸交水合資会社(南側)
資料*36)から抜粋要約すると、次の通り。
明治維新後、特産物である生糸の発達によって士族授産の基礎を固めるため、士族三十余人で数組連合して精糸会社(という名称の組織)を設立し、米国向直輸販売を開始。交水社の前身は第2組に属し前橋市一毛町に営業場を創設した(明治10(1876)年8月)。その後、明治11年(1877)精糸会社から独立し「精糸交水社」と称する株式組織を設立。明治26(1893)年12月の商法施行に伴い、精糸交水合資会社と改称。
*36:群馬県史 資料編 23 (近代現代 7 産業 1 蚕種・養蚕・製糸・織物),pp523-528,1985.
31)諏訪町
32)向町通
味噌饅頭製造(南側)
資料*37)から抜粋要約すると、次の通り。
・餡の入らないまんじゅうを太い竹串に刺し、家伝の味噌タレを塗って、こんがりと焼いた、この異様な焼きまんじゅうが“商品”としてお目見えしたのは安政四年(1857)のことだ。
・明治十年(1877)の西南役のころまでは、味噌に糖分を加えず生味噌のままであったが、外国産砂糖の輸入に伴い、庶民の嗜好が変わってきたことから、砂糖を加味するようになった。名称も初めの「味噌付きまんじゅう」という縁起から、現在の「焼きまんじゅう」に改めた。
*37:島武史,屋号・商標100選・CIのルーツをさぐる,日刊工業新聞社,pp44-45,1986