1946年 紺屋町付近
(国土地理院空中写真から作成)
曲輪町の東端、桑町(えびす坂)ー連雀町通りから県庁に至る通りで、前橋城の曲輪の中に作られた町です。町列は図のとおりで、場所がらか、警察署、市役所、郵便電信局、新聞社などが位置しています。
図1 曲輪町通りの町列
下の写真1,2は、ともに曲輪町通りの写真です。出典(注)では「県庁通り」ですが、これは出版時(1990年、現代)の呼称で、ここでは便覧の時代を扱うため「本町曲輪町通り」のうちの「曲輪町通り」(仮称)として扱います。
(注)平田一夫,大正末から昭和の初め 平田松平写真集,p44・45,1990.
写真1は、通りに上毛新聞社と前橋郵便局が並んでいて、便覧の町列に対応します(注)。
次の写真2は、右端から前橋郵便局の壁、特徴的な門柱、上毛新聞社(屋根右端にシート?)が並んでいて、前の写真と反対の方角(西)を写していることがわかります。奥の森が県庁だそうです。
(注)写真右奥の塔が不動貯金銀行、前橋支店の開店は大正3(1914)年9月なので*1)、写真の年代はそれ以後です(大正9(1920)年2月に協和銀行になりました)。また、便覧(1904)掲載の前橋郵便電信局は明治36(1903)年7月11日に前橋郵便局と改称され電話業務を開始しています*2)。便覧では改称の反映が間に合わなかったようです。なお、写真1と便覧では上毛新聞社と成立舎の位置が逆になっています。
曲輪町通りについての昭和30年代の都市改造事業の記録*3)によると、当時の幅員平均は11m(約6間)なので、大正や明治末期も同様の道幅だったのではないでしょうか。この写真1、2と、大正時代の本町通りおよび拡幅前の停車場通りの写真を見比べると、道幅は同じようにみえます(注)。
(注) 資料*4)によると大正10(1921)年に道路拡幅があったとのこと。写真が拡幅前か後かは不明ですが、昭和30年代で幅員平均11m(約6間)なので、大正10年の拡幅前は6間よりも狭かったことになります。
*1:前橋市史 第5巻,p1060,1984.
*2::前橋市史 第7巻(資料編 2),p1139,1985.
*3:区画整理 9(9),pp2-11,1966.
*4:前橋市史 第4巻,p206,1978.
写真1 曲輪町通り東向き(出典では「県庁通り」)
写真2 曲輪町通り西向き(出典では「県庁通り」)
(出典:平田一夫,大正末から昭和の初め 平田松平写真集,p45(写真1)・44(写真2),1990.)
※1990年出版の出典は「県庁通り」ですが、ここでは便覧(1904)の表記に沿って「曲輪町通り」としています。
次に、この通りにあった主要な官公署等を概説します。なお、以下の文中で参照した箇所は図中に赤文字で示しました。また方位記号は概略の方位としてご覧ください。
まず図の左側(北側)の町列を図の上側(東側)から、
【北:群馬新聞社、写真3】
資料*5)によると、新聞の発行は明治13(1880)年に終了しているようです。
・発行所は前橋曲輪町108番地、広聞社、のちに、同竪町78番地へ移転
・明治12(1879)年11月1日に「群馬新聞」第48号を「群馬新誌」の追号として刊行したものが創刊に当たる。廃刊の期日は不明。「日本新聞歴史」(明治15(1882)年)によると、廃刊が13(1880)年12月となっている~
・本紙は「群馬新誌」を改題したものであるが、内容・体裁ともに大きな変化が見られる。~雑報記事が増大し~自由民権運動の高揚期に当たっているので演説会の記事も多い。
ただし、資料*6)によると、明治44年10月19日及び明45年2月14日の新聞が所蔵されているとのことで、資料*5)の記述と相違します。理由は不明で私の誤解の可能性もありますが、念のためここに示しておきます。
また、大正元年 群馬新聞社(竪町79)から「群馬県官民職員録 大正元年拾月現在」*7)が刊行されているので、群馬新聞を廃刊した後も出版活動は継続していたようです。
*5:群馬県史 資料編19(近代現代 3 新聞記事集録)、p148,1979.
*6:明治新聞雑誌文庫所蔵検索システム、http://www.meitan.j.u-tokyo.ac.jp/detail/30294.
*7:群馬県官民職員録大正元年拾月現在,p244,1912
写真3 群馬新聞社(出典のp23該当箇所を抜粋表示)
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー所蔵「前橋市案内」(1910))
【北:憲兵屯所跡】
資料*8)に「前橋案内」の引用として、次のように記載されています。
・群馬県憲兵分遣隊主部は曲輪町六九番地にあり、~明治29(1896)年1月に始設され県下に四屯所を置く。前橋、高崎、渋川、桐生是なり。なお、前橋市憲兵屯所は、分遣隊主部と同じく曲輪町六九番地にあり。~所員総て9名あり(前橋案内)。
*8:前橋市史 第5巻,pp1233-1234,1984.
【北:前橋市役所、写真4】
資料*9)から概要をまとめると、次のとおり。
・市制施行当時は、~横山町の元前橋町役場を充用した。その位置は現在の千代田町2丁目で、建物が古く極めて狭隘で不便であった
・明治25年6月18日の市会に
市役所位置案 曲輪町旧高等小学校分校跡を以て前橋市役所庁舎に允つ
の議案が提出され、これが異議なく可決
・明治26年~7月20日落成移転
・新市庁舎は本館1棟(附属下屋3棟)、人民控所1棟
・旧高等小学校の玄関を残した~同所が高等小学校分校になる以前は、旧藩時代の民事役所であったという由緒があるので、記念として玄関だけを、旧来のまま新市庁舎の玄関として取り付けることになった
*9:前橋市史 第4巻,pp204-205,1978.市史には市役所の別の写真も掲載されています。
写真4 前橋市役所(出典の該当箇所を抜粋表示)
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー所蔵「前橋市案内」(1910))
【北:前橋郵便電信局(前橋郵便局)、写真5】
資料*10)から概要をまとめると、次の通り。
・明治5(1872)年10月15日に設けられた郵便取扱所は、前橋・高崎・境・伊勢崎であった。
・明治16(1883)年に郵便条例が制定され、郵便事務は県の行政管轄から駅逓寮の直轄となった。
・前橋郵便局は現在の日本銀行前橋支店の西隣りの位置に置かれていた。
・明治16(1883)年に電信局と郵便局が併設されて「前橋郵便電信局」と称するようになり、その後「前橋郵便局」となった。
*10:前橋市史 第4巻,pp1071-1074,1978.
写真5 前橋郵便局(出典のp77該当箇所を抜粋表示)
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー所蔵「前橋市案内」(1910))
【北:上毛新聞社、写真6】
資料*11)によると、
群馬県唯一の日刊新聞。創刊は明治20(1887)年11月1日。創立者は篠原叶。
・社屋は前橋市曲輪町(大手町)に設け、古市町の新社屋へ移転するまで営業を続けた。
・叶は「筆は剣より強し」「無冠の帝王 一世の木鐸」をスローガンとしていたところから、その気風に賛同する文人がはせ参じた。
*11:群馬県百科事典,p484,1979.
資料*12)によると、発刊の趣意として、
世界の大勢、東洋における日本の将来を論じ、群馬県のために世論を代弁し知識を広め、産業経済を進展させる大きな役目を果たしたいという、抱負を述べている。
*12:前橋市史 第5巻,p389,1984.
下の写真では、上毛新聞社と成立舎の看板の位置が便覧とは逆になっています。また右側の建物が前橋郵便局です。
写真6 上毛新聞社(出典のp22該当箇所を抜粋表示)
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー所蔵「前橋市案内」(1910))
【北:曲輪町巡査派出所】
後述の前橋警察署が設けた6つの派出所のうちの曲輪町の派出所です。
【北:日本赤十字社群馬支部倉庫】
資料*13)を要約すると、次の通りです。
元佐賀藩士、元老院議官 佐野常民が明治10(1877)年の西南戦争に際し「敵味方の区別無く救う」赤十字と同様の救護団体を作るべく奔走し、日本赤十字社の前身「博愛社」を創立。明治19(1886)年日本が赤十字条約に加盟し、翌年日本赤十字社に改称。
*13:https://www.jrc.or.jp/about/history,(20250518閲覧).
また、資料*14)によると、
・明治20(1887)年 県知事を委員長とする群馬県委員部を設置
・同26年群馬支部に改称。
・同29年旧県立医学校附属病院土地、建物、器具、器械一切を支部事務所、救護員養成所土地、建物として購入。
*14:日本赤十字社群馬県支部沿革,https://www.jrc.or.jp/chapter/gunma/about/ (20250518閲覧)
この購入した土地は、資料*15)によると
・明治12年1月24日、衛生所を廃し、医学校となし、同校中に附属病院を置く
・明治12年 公私立病院/1,県立医学校附属病院/上野国群馬郡前橋曲輪町
とあるので、この土地に設置された支部倉庫だと思われます。
*15:双文 (4),群馬県における明治前期衛生行政の推移,pp10-11,1987.
【北:上野教育会附属図書館】
資料*16)を要約すると、次の通り。
・県を単位とする教育団体である上野教育会の附属事業として、明治33(1900)年5月、前橋の日本赤十字社群馬支社部内に設置されたのがこの図書館である。県内最初の図書館で、同37(1904)年に独立して法人組織となり、曲輪町(注・現在の大手町2丁目)に建物を新築した。備付け書籍3200冊、閲覧室の定員40名であった。明治41年4月から館内の閲覧者以外に、郡市教育会に書籍を廻送して、郡部閲覧者の利便に供した。管理者は上野教育会の歴代会長がこれに当たった。
*16:前橋市史 第4巻,p548,1978.
資料*17)によると、
・上野教育会 明治19(1886)年の設立にして教育上知識交換の機関たり故に会員は各小学校教員各町村長等直接間接に教育事業に関係ある者太だ多く~。
*17:前橋案内,p219,1898.
また、上野教育会についての近年の研究としては、資料*18)があります。
*18:清水禎文,群馬県における教育会の歴史的研究-市立上野教育会成立まで-,東北大学大学院教育学研究科研究年報第53集・第1号,pp23-42,2004.
次に、町列の右側(南側)を、図の上側(東側)から、
【南:新道】
曲輪町通りと竪町通りが交差する十字路の南側は「新道」と記載されています(注)。資料*19)によると、
・明治22(1889)年に国道17号のもとになった渋川・伊香保新道がつくられ、細ヶ沢から北の道路も開かれた。翌年には竪町から堀川町への新道建設で反対派が暴動化し、町長・助役・町会議員総辞職にまで発展した。
という事件が発生しています。それから15年を経た便覧の時代には、ようやく道路が開通し、当時は「新道」と呼ばれていたということのようです。
(注)「明治末期の中心市街」で述べたように、便覧の「前橋市略図」や、「前橋市街全図」ではこの交差点は食い違い道路で表されています。しかし町列では普通の十字路のように記載されています。食い違いがわずかなので省略されたのでしょうか。資料*20)には、この交差点を南から写した写真が掲載されています。わずかですが食い違っているようにみえます。
*19:前橋市史 第5巻,p123,1984.
*20:目でみる群馬県の大正時代 2,p20,1986.
【南:前橋警察署、写真7】
資料*21)によると、前橋案内(明治31(1898)年)の引用として、
・曲輪町にあり、洋風の門柱を入れば門の左側には、前橋測候所の掲示場及び天気予報柱あり、信号旗常に柱頭に翻る、又留置檻房あり、右側には警察署の掲示場あり、衛舎あり、前むこと数弓にして白塗りの洋館あり、方四丈ばかり、是を本署となす、総敷地坪数241坪、建坪約70坪にして署舎の西隣に署長官舎あり、~署長~、外警部1名、巡査45名の属僚あり。
とあります。警察署正面の描写は写真とよく一致していると思いませんか?
*21:前橋市史 第4巻,p1181-1182,1978.
また、同資料には、
・署構内にポンプその他消防機具を備え、出火の際ここから出場した。
との記載があります。
資料*22)によると、派出所は本町、横山町、細ヶ澤町、曲輪町、天川町、岩神町に設けられていました。
写真には蒸気喞筒(そくとう:ポンプの当て字だそうです)とありますが、これは消防用の装備で、馬が引いているのが喞筒のようです。資料*22)によると、消防に関しては、
消防の設備に関し意を用いる所素より少なからず、~一朝事あるときは警鐘一打皆な動く近時災害の少なきは其設備の完きを得たると消防隊の敏活なる動作に由らずむばあらず。
との記載があります。
*22:前橋市案内,pp35-36,1910.
写真7 前橋警察署と蒸気喞筒(出典のp35該当箇所を抜粋表示)
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー所蔵「前橋市案内」(1910))
【南:前橋商報】
資料*23)によると、
・曲輪町二十番地(注・現在の大手町二丁目)で、明治31(1898)年5月10日第1号を発行した。前橋市場の商況を報道する特殊の業界新聞である。~発行は前橋の六斎市(注・4・9・14・19・24・29)の翌日発行するという珍しい新聞であった。
*23:前橋市史 第5巻,p392,1984.
【南:集成学館】
資料*24)によると、
・私学の鳳鳴学舎、幽谷義塾、育英学校、清揚女学校の4校が合同して集成学舎とした(保岡申之著「前橋繁昌記」)。
・別の記録によれば~集成学館は明治22年創立となっており、26年の記録には幽谷、鳳鳴、清揚は姿を消しているから、この間に集成学館というのが合同して一校になったものであろう。私学が公立学校の普及によって自然淘汰されたのである。
また、
・明治27(1894)年の集成学館の教科課程表を見ると、日本外史・十八史略、代数、幾何、算術等があげられている。
・入学は随時で特に師範学校や県立中学校へ受験するものには予備校的性格をもたせた。
との記載があります。
*24:前橋市史 第4巻,p540,1978.
【南:師範学校、写真8】
資料*25)によると、
・明治6(1873)年2月1日群馬県前橋町源英寺内に設立され、小学教員伝習所と称する。
熊谷県の設置・廃止と群馬県設置による移動を経て、
・明治9(1876)年10月、前橋町龍海院内に移る。
・明治11(1978)年8月、曲輪町新築校舎に移る。
・明治31(1898)年4月、師範学校令に基づき群馬県師範学校と改称する。
*25:前橋市史 第4巻,pp500-501,1978.
写真8 群馬県師範学校(出典のp13該当箇所を抜粋表示)
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー所蔵「前橋市案内」(1910))
【曲輪町の鐘楼】
写真9 曲輪町の鐘楼(出典の鐘楼を拡大表示)
(出展:平田一夫,大正末から昭和の初め 平田松平写真集,p45県庁通り,1990.)
曲輪町には、旧藩時代から戦中まで鐘楼があって、時を告げていたそうです。写真9の前橋郵便局と不動貯金銀行の間にも「鐘楼」が写っているのですが、他資料と比較するにつれ、違和感を感じるようになって夜も眠れませんでした...。
その背景を、順を追って説明します。
資料*26)掲載の鐘楼について抜粋すると次のとおりです。鐘楼の鐘の音は江戸時代から戦前に至るまで、市民にたいへん親しまれていたそうです。
*26:萩原朔太郎と詩的風土,pp241-247,1981.
この鐘楼は鐘撞堂と呼ばれ旧藩時代より明治大正にかけて、いや戦災以前まで前橋の代表的名物だった。高さ15、6メートル、平屋建ての多い前橋のメーンストリートに丌(き)然として聳えたち全市が一望に見渡せた。構造は四方が黒塗の下見板張りで芝居の書割に出る城下町特有の一種怪奇な存在だった。正四角形の屋根の下に大きな鐘を吊し、撞木が附いていた。ラヂオやテレビのなかった往事はこの鐘撞堂の鐘が唯一の時報として市民に親しまれていた。
(坂梨春水、朔太郎と上州新報と私/(注)上州新報は県庁前通り(現朔太郎通り)にありました)
下の図は資料*26)に掲載されていた曲輪町通り(A)と県庁前通り(B)の見取り図をトレースしたものです。赤文字は便覧の表記を補ったもので、鐘楼のあった場所は菓子製造業と記載されています。鐘楼が便覧に記載されていないのは、商工業に無関係なこと、通りに面していないこと、などが考えられます。
なお、「赤城館」は明治40(1907)年に「赤城館事件」の舞台となりましたが、明治37(1904)年の便覧には記載されていません(*)
(*)「10.13県会で政友・非政友両派が対立し、議員の多数派工作の実力行使が行われ」た事件。群馬県史 通史編 10 (年表・索引) 本編,p341,1992.
図2 曲輪町及び北曲輪町の見取り図(出典p243をトレースし一部加工)
(出典:萩原朔太郎と詩的風土,pp241-247「坂梨春水、朔太郎と上州新報と私」,1981.)
また、下の写真11は、「はじめに」にも掲載した大正4(1915)年版の前橋商工案内に収録されたパノラマ写真から現在の本町一丁目付近を抽出拡大して掲載したものです。写真左側の中ほどが現在の本町一丁目交差点で、不動貯金銀行がまだ無いため写真自体は大正3(1914)年9月より前に撮影されたものです。交差点のやや右奥に鐘楼があり、本町通りには電車が走っています。鐘楼は周囲にある2~3階建ての建物よりも高く、4~5階建ての高さがあるように見えます。
(写真右下に黒くみえる「何か」が写っています。2階建てくらいの高さで磨き上げられたようなつやのある表面をもった巨大な「何か」です。それが道路上にあります。正面には紋?のようなお日様マークのようなものが描かれています。なんでしょうか? 気になって...。
それと、撮影場所は連雀町の交差点付近のようですが、どのように撮影したのでしょうか? 消防出初め式のようにハシゴを直立させて、その上でパノラマ撮影をしたのでしょうか...? )
写真11 曲輪町の鐘楼と周辺の町並み(出典の一部を拡大して掲載)
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー所蔵「前橋商工案内 大正4年版」(1915)中の「前橋市街」)
別の資料にも鐘楼の写真が掲載されていて、資料*27)には年代不明、資料*28)には昭和25年の鐘楼の写真が掲載されています(出版物の原本をご確認ください)。
*27:丸山知良・島田幸一編,写真集 明治大正昭和 前橋 : ふるさとの想い出87,国書刊行会,p136,1979.
*28:丸山知良・島田幸一編,写真集 明治大正昭和 前橋 : ふるさとの想い出87,国書刊行会,p152,1979.
(注)この写真集は、前橋市立図書館、群馬県立図書館、国立国会図書館に所蔵されています.
これらの写真では、鐘楼は不動貯金銀行(協和銀行)に隣接していて、多めに見積もっても10mは離れていないようにみえます。また、後者の写真によると、鐘楼は銀行とほぼ同じ高さです。したがって、市役所方向(西)から見ると、銀行の西側の壁の一部は鐘楼によって屋根近くまで覆い隠されているはずです。
ところが、写真1の鐘楼と不動貯金銀行の範囲を拡大してみると(写真12)、銀行の西壁の前に遮る建物はありません。また、鐘楼と銀行との距離が10m以内であるとも思えません。しかも鐘楼の高さは電柱よりも低く、市役所の木と同じくらいの高さに見えます。鐘楼の下部が見えるとよいのですが、残念ながら傘で遮られて全体は確認できません。
写真12 鐘楼と不動貯金銀行(出典の一部を拡大表示)
(出展:平田一夫,大正末から昭和の初め 平田松平写真集,p45県庁通り,1990.)
試みに、Google Earthのストリートビューで写真1の撮影地点に近いと思われる位置から旧不動貯金銀行の位置を眺め、感覚的ではありますが、上の写真に対応すると思われる範囲を拡大したのが下の写真です。カメラの位置や特性、建物の規模・階数、道路の幅も違いますし、街路樹で見通しもきかないため、厳密な比較はできません。
そうではあっても、鐘楼の位置は不動貯金銀行よりももっと撮影地点に近いところ、下の写真で言うならば、現在の日本銀行前橋支店(旧前橋市役所)の敷地西側付近にあったように見えませんか?
写真13 現在の旧不動貯金銀行及び旧前橋市役所付近(写真12に対応)
これはどのように理解すべきなのでしょうか?
ある一時期だけ、鐘楼は市役所付近に移設されていた、ということを示しているのではないでしょうか。
それとも錯覚なのか...。
鐘楼について記載されている資料は他にもあって、例としては次の通りです。ただし、移設について言及したものはありません。
資料*29)
曲輪町にある高櫓を鐘楼とす、昼夜二十四時の時刻を報じ時に非常を知らしむること古来今に至るも異なることなし、元は八幡宮の附属神宮寺の釣鐘を借り受けたるものの由なるが、元禄17(1704)年新たに大鐘を鋳造し明治16(1883)年大火の際鐘楼を焼失し現今のものは翌17(1884)年の春再建したるものに係る。
*29:前橋繁昌記,p276,1907.
資料*30)
此鐘楼は旧藩主松平和州候武州川越に移り此地に陣屋を置かれし時建設されしが~明治4(1871)年廃藩置県と共に自然廃滅せんとせしを市民協議の上依然据置く事となり其后16(1883)年大火の節烏有に帰せしが翌年再建して旧態を存しぬ
*30:関口丈一郎編,上野名勝誌第2編,pp40-41,1917.
資料*31)
明治10年5月30日の破獄事件に関する記録を紹介した同資料には、「(厩橋小)学校側の鐘楼番人ヲ呼起シ非常ノ警報を撞カシメ」との記載があります。つまり鐘楼は厩橋小学校が管理していたようです。便覧当時の市役所は、この厩橋小学校の後に設置されているので、鐘楼の管理も市役所が引き継いでいた可能性があります。だとすれば、鐘楼を移築する必要が生じたときに、それを市役所の敷地内に設置することは十分あり得るのではないでしょうか。少々強引でしょうか...。
*31:重松一義,前橋未決檻大破獄騒動一件,地方史研究,26(5),pp45-50,1976.
資料*32)
・不動貯金銀行(現、協和銀行)の背高ノッポの建物の西に鐘突堂があった。高さ15、6メートル。銀行ができるまでは屋根の低い家並みの間、ぬうっと突き出して高い望楼。明治16(1883)年の火災で、いったん消失したのを翌17(1884)年、前と同じように再建、それから長年にわたり24時間、時を告げてくれた。また市内に火災発生のとき、遠い場合にはゴォーン、間をおいてまたゴォーンと鳴り、近火とあればゴォーン、ゴォーンと連打。だいたい遠、中、近と3とおりに打ち鳴らされた。
・旧藩時代、前橋と川越は殿様以下多数藩士が行ったり戻ったりして、つながり浅からぬ間柄。もしかすると、両市の鐘楼は双生児で、同一の設計、同じ棟梁の手によって造られた-別に調べたわけでないから、お笑い草かもしれないが-と、推理してもあながち突飛でもあるまい。
*32:横田真吾,少年のころ-前橋への郷愁-,pp48-49,1979.
戦前の前橋市民にとって心に残る鐘の音だったことを知ると、この鐘が失われたことは大変残念です。この鐘楼が残っていたら、世代を超えた思い出の音になったかもしれません。また川越の時の鐘が観光名所になっていることを思うと、前橋の名所にもなったかもしれませんね。周辺環境はだいぶ違いますが...。
前橋城のお殿様が、前橋と川越を行ったり来たりしていたご縁を考えると、川越と姉妹都市になっておいてもよかったような気がします。
最後に、参考として江戸時代の時鐘に関する資料を紹介しておきます。
次の図は、「再築前の前橋城の地割りに、再築前橋城の計画線が朱書きで記され 」た図です*33)。図のやや左側上部から下に伸びる通りが竪町通り、右下から斜め左上に伸びているのが本町通りです。その交点のやや左に「時鐘」の文字が見えます。厳密な位置を特定するのは困難ですが、不動貯金銀行の西側あたりっぽい、と主張しても誤りではないような気がします。
*33:佐藤雲外(錠太郎),前橋城再築計画図,製作年不明,群馬県立図書館デジタルライブラリー,前橋市立図書館所蔵資料 .
図3 前橋城再築計画図(出典の一部を加工して表示)
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー,前橋市立図書館所蔵資料 )
次の図は、「前橋城陣屋之図」*34)の一部(おそらく南西角、ただし方位記号が無いので断定はできません)を拡大表示したものです。この陣屋は「寛延三年に設置された郡代所、前橋陣屋の建物平面図と思われる 」とのことで、寛延三年は1750年です。
陣屋の隅に「鐘堂」、「鐘接結処]があります。「鐘撞詰処」ならわかるのですが、「鐘接結処]はわかりませんでした。ただ、陣屋の隅に「鐘堂」があったことは確かなようです。
この鐘堂の位置が、上の地図の「時鐘」と同じであるならば、現在の日本銀行前橋支店とその東の区画に当時の陣屋があったということになるようです。
*34:前橋城陣屋の図,製作年不明,群馬県立図書館デジタルライブラリー,前橋市立図書館所蔵資料.
図4 前橋城陣屋之図(出典の一部を拡大表示)
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー,前橋市立図書館所蔵資料 )
「前橋市役所」で引用した資料によると、市役所は旧高等小学校の跡に作られ、その小学校は旧藩の民事役所だった、とのことなので、その民事役所には、この陣屋が使われていたのではないでしょうか。また、図2では、市役所と鐘楼の間に営林署(便覧では憲兵屯所跡)がありますが、旧藩時代は、市役所から鐘楼までの区画が陣屋だったのかもしれません。
資料*35)には、次の記述があります。
慶応2年3月26日の布告により前橋城大手馬出しの外にあった陣屋を講学所として4月1日から稽古をはじめる~。『旧藩立学校取調要項』によれば、「博喩堂の所在地は旧城内曲輪町の厩橋小学校の地」(現在の本町一丁目附近)とある。陣屋は仮の場所として一時充てられたものであろう。
*35:前橋市教育史 上巻,p9,1986.
この記述をふまえると、陣屋 = 旧藩の講学所(博喩堂) = 厩橋小学校 = 市役所 という土地利用の流れになるようです。その後のどこかの時代で、市役所 = 市役所 + 憲兵屯所 + 鐘楼 に分割されたのではないでしょうか。