1946年 紺屋町付近
(国土地理院空中写真から作成)
ここでは、駅と県庁を結ぶ4つの通りについて、大正時代の写真と戦後の空中写真(国土地理院空中写真)を用いて道路拡幅の様子を示します。この拡幅によって、便覧の町列はほぼ完全に失われたように見えます。
なお、大正時代の写真は停車場通り(駅前通り)しかなかったため、他の3つの通りについては昭和の道路改造だけを示します。
(1)停車場通り(現駅前通り)
次の写真1,2は、資料*1)に収められている前橋駅前の写真です。年代は不詳ですが、停車場通りの拡幅工事(写真1)と拡幅工事完成(写真2)とされる写真で、資料*2のp45によれば大正14(1925)年頃の写真と推測できます。工事により道路が大きく拡幅されたことがわかります。
停車場通りはこの時に真っ直ぐに作り直されましたが、次の写真3からわかるように、斜め道路は完全にふさがれたわけではなく、戦後まで残されていたようです。
*1:平田一夫,大正末から昭和の初め 平田松平写真集,1990.
*2:入沢康平編,田中町百年の風雪,出版年不詳.
写真1 駅前道路拡幅工事
(出典:平田一夫,大正末から昭和の初め 平田松平写真集,p10,1990.)
写真2 駅前道路拡幅工事完成
(出典:平田一夫,大正末から昭和の初め 平田松平写真集,p13,1990.)
写真3 停車場通り
※国土地理院空中写真を加工して掲載
左の写真3の①は1946年の空中写真で、駅前通りはまっすぐな道になっていますが、矢印の位置にはまだ東向きにカーブする斜め道路が存在しています。斜め道路の道幅は駅近くの道幅の1/2~1/3程度なので、資料*2)p45の記述「6間道路(注:幅約10.9m)であったが、大正14年~東側を6間だけ取拡げて12間道路が出来た」と概ね整合します。つまり、この斜め道路は明治末期の道路の痕跡ではないでしょうか。
②の1950年の写真は、斜め道路の道路沿いの家屋が取り除かれている途中のようです。駅前通りの中央部は大きく拡幅されています。さらに③の1961年になると全体の拡幅が完了し、西から群馬大橋通りも接続し、本町交差点の拡大も完了しています。
*2:入沢康平編,田中町百年の風雪,出版年不詳.
(2)本町曲輪町通り(本町・連雀町区間を「本町通り」と仮称)
写真4 本町通りとその周辺
※国土地理院空中写真を加工して掲載
1950年の写真は停車場通り(白線)の広さだけが目立っていますが、1961年になると本町通りも曲輪町通りの東部(黄色線)も大きく拡幅されたほか、周辺の道路(白線)も拡幅されていることがわかります。
(3)本町曲輪町通り(曲輪町区間を「曲輪町通り」と仮称)
写真5 曲輪町通りと県庁前通り
※国土地理院空中写真を加工して掲載
曲輪町通りについては、昭和37(1962)年から開始された「前橋市曲輪町都市改造事業」についての紹介記事があります(資料*3)。これによると市役所から中央郵便局に至る区間は幅員平均11m(約六間)、市役所付近は桃井土地区画整理事業による20m街路、中央郵便局付近は戦災復興事業による27m道路が接続しており、改造事業によって全線を27m道路にする、というものでした。つまり幅員11mの区間がさらに16m拡幅されて幅員が倍以上の27mになったということです。
曲輪町通りと、その北側の県庁前通りについて、1964(昭和39)年と1970(昭和45)年の道幅を比較すると、県庁前通りはほぼ同じに見えますが、曲輪町通りは2~3倍に拡幅されていることがわかります。
*3:区画整理 9(9),pp2-11,1966
(補足)県庁周辺の特徴的な斜め道路
下の図1ⓐは、1910年出版の前橋市街全図(資料*4)から県庁前を抽出したものです。図には、①②③で指示した特徴的な斜め道路があります。前橋城本丸に近いため、その名残かと考えて調べましたが、お城の破却や道路設置の方針などを記録した資料には至らず、確認できませんでした。
そこで、曲輪配置(資料*5)と1910年の地図(図1ⓐ)を比べてみました(図1ⓑ)。
図1ⓑの黄色と紫色の線が図1ⓐの県庁とその東前の道路の概形で、黄色が県庁の掘割り、紫色が県庁前の道路です。縮尺を厳密に揃えたわけでもなく、県庁と道路の概形線も曲輪配置とかなりずれているので、あくまでも目安に過ぎませんが、図からおよそ
①は十人小路から二の丸南東隅に向かう道*6)
②は車橋門から三の丸南東隅に向かう道(三の丸の位置にが裁判所があります)
③は三の丸北西隅から北曲輪に向かう道
であったようにみえます。
この3つの斜め道路は、現在は②が痕跡を残すのみで他は無くなってしまいましたが、図1ⓒに示した1948年の国土地理院空中写真には3つとも写っていて、戦後まで存続していたことがわかります。ただし、子細に眺めると斜め道路①は改造途中のようにも見えますので、戦後早い時期に道路の改造が進められたようです。
*4:前橋市街全図,1910.
*5:群馬県教育委員会文化財保護課編群,教材群馬の文化財 3 (近世・近代・民俗編),p7(慶応三年完成),1982.
*6:「十人小路」の名称は、「酒井氏時代前橋城図」(1819)(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー,前橋市立図書館所蔵資料 )から。 なお、「前橋城侍屋敷図 」(製作年不明)(出典は同じ)では、この小路を「十八小路」と記載しているように見えます。字体の違いによるものでしょうか。
図1 県庁周辺の特徴的な斜め道路(出典を加工して掲載)
ⓐ出典:前橋市街全図,1910.
ⓑ出典:教材群馬の文化財 3 (近世・近代・民俗編),p7(慶応三年完成),1982.
ⓒ出典:国土地理院航空写真
(4)県庁前通り
次の写真6は昭和23(1948)年の県庁前通りと曲輪町通りで、道幅はほぼ同じにみえます。曲輪町通りは昭和30年代まで平均幅員6間(約11m)だったため(資料*3)、県庁前通りも同様の幅員と考えられます。
*3:区画整理 9(9),pp2-11,1966
写真6 県庁前通り
※国土地理院空中写真を加工して掲載
また、便覧当時の県庁前通りの幅員は、資料*7)に現在の半分くらいとの見立てが示されています。現在の「朔太郎通り」の幅員をGoogle Earthで測定すると約14mなので、便覧当時の県庁前通りは幅員7m程度だったのではないでしょうか。
*7:丸山知良編,写真集 明治大正昭和 前橋 : ふるさとの想い出87,p16,1979.※この写真集では「裁判所通り」と記載されています。