1946年 紺屋町付近
(国土地理院空中写真から作成)
波宜亭がどんな建物であったか 写真があれば見たい、と思うことがありました。でも「これが波宜亭です」という写真を見たことがありませんでした。
前橋文学館の朔太郎展示室に波宜亭の建築模型があり、建物の姿を知りました。その建物は、今回の作業で複数の資料を調べていた時に掲載されていた建物にとても似ていました。下の写真です*1)。
*1:平田一夫,大正末から昭和の初め 平田松平写真集,p68,1990.
写真1 前橋公園の日本庭園
(出典:平田一夫,大正末から昭和のはじめ 平田松平写真集,p68,1990.)
写真の右側、やや上のほうに建築模型に似た建物があります。色まで白っぽく見えるのが不思議な気がしますが、光の加減でしょうか、思っていたよりも明るい色の建物です。臨江閣側から東向きに撮影したようで、中央やや左寄りにある欄干が、現在のトンネルの位置のようです。となると、この建物は波宜亭のあった位置に建てられているようにみえます。
この写真は別の写真集(資料*2)にも「前橋公園日本庭園」として掲載されているのですが、2つの写真集とも「波宜亭が写っている」との指摘はありません。でも、この建物は。波宜亭なのではありませんか?
*2:丸山知良・島田幸一編,写真集 明治大正昭和 前橋 : ふるさとの想い出87,国書刊行会,p105,1979.
大正14(1925)年8月発行の純情小曲集に収録された「郷土望景詩の後に」で、波宜亭については、
「先年まで前橋公園前にありき。~今はいづこへ行きしか、跡方さへもなし。」
と記されています。
資料*3)によると、「波宜亭は正しくは「坡宜亭」」で「その建物は大正十(1921)年、前橋公園の一部に吸収された時に姿を消した」とされています。
また、資料*4)では前橋市史の記述を引用し「同十二(1923)年二月~接続地の一部二十五坪を地籍交換で入手して園地を整備し~」、「その「二十五坪」の土地が、ほかならぬ波宜亭(正確には「坡宜亭」)だったのである」とされています。
こうした記述によると、大正10(1921)~12年(1923)頃には、波宜亭はかつてのような営業は行っていなかったようですが、建物は残されていたのでしょうか。というのは、
草野心平の「前橋時代」*5)には、1948.4.7の日付で「波宜亭は焼けずに残っていた。」という記載があります。これは、氏の記憶違いなのでしょうか。
*3:野口武久,「朔太郎の日々 -生誕100年に寄せて」,pp92-94,1986.
*4:伊藤信吉,萩原朔太郎と詩的風土,pp10-12,1981.
*5:草野心平全集 第9巻,筑摩書房,pp43-52,1981.
【2025年9月6日】
萩原朔太郎研究会の方にご確認いただいたところ、
・写真は現在の"るなぱあく"側から撮影されたもの。
・波宜亭は"るなぱあく"側にあり、前橋公園の整備に伴って大正10年頃取り壊されたらしい。
・写真のトンネルは、竣工が大正11年なので撮影はそれ以後。
・また波宜亭は、写真の建物よりもトンネルに近い位置にあった。
・撮影時期や位置から、写真の建物は波宜亭ではないだろう。
とのことでした。
残念な結果となりましたが、今後も折を見て探索してみたいと思っています。