1946年 紺屋町付近
(国土地理院空中写真から作成)
祖父母やその両親たちが若かった頃の前橋は、どのような町であったのか。その町がどのような変遷を経て今の姿になったのか。それを知りたくていろいろな資料を眺めてみました。その結果わかったこともあれば、以前からの疑問が相変わらずわからないまま残ってしまったり。とりあえず昔の前橋の様子を視覚的に整理してみようと考えて、まず最初に明治末期の前橋の町並みを現代の地図上に再現する作業を始めました。資料は群馬県営業便覧(明治37(1904)年)*1)で、昔からよく知られている冊子のようです。でも地図上に展開しようとすると、当時と現在との対応関係がつかみづらい箇所が多く、調べてみたところ、戦前・戦後の都市改造(区画整理による街路の造成、ここでは特に道路の新設、拡幅)によって、町並みが大きく改変されていることを知りました。
そこで地図上への再現はあきらめ、便覧の時代(明治末期)を中心に、駅から県庁を結ぶ4つの通りについて、そこにある官公署や銀行等の設置目的などから当時の社会の様子を眺めて見ることにしました。また併せて、前後の時代の町並みや道路改造の様子を、古い絵図や空中写真を用いて整理し、町並みの変化をまとめてみました。その過程で少し変則ですが、萩原朔太郎関連を大正・昭和のところで示しています。
全体は、およそ次の構成になっています。
・江戸時代 : 江戸時代の町割り
・明治・大正 : 明治末期の町並み
・大正・昭和 : 大正・昭和の道路改造、朔太郎関連
前橋の歴史については、小学生の頃「わたしたちの前橋」で習っただけですし、そもそも歴史は門外漢なので、専門家にとっては常識の内容かもしれません。うまく整理できているかはわかりませんが、興味のある方はご覧ください。
【便覧とその時代背景など】
便覧の時代、明治37(1904)年は日露戦争開戦の年、鈴木貫太郎は巡洋艦「春日」上で、その時を迎えていました。また、高崎15連隊や日赤群馬支部の人たちが戦地に向かっています。
2. 6 高崎歩兵第15連隊に日露戦争への動員命令下る。
2.10 ロシアに宣戦布告。
2.24 旅順口閉塞作戦開始。
7.30 日露戦争開戦により、日赤群馬支部救護班が、陸軍病院船勤務のため招集され、出発する。
8.10 黄海海戦。
8.15 高崎歩兵第15連隊が中心となり、旅順164高地(高崎山)を3日間にわたる激戦ののち占領する。
8.19 第3軍、旅順総攻撃開始。
9月 与謝野晶子「君死に給ふことなかれ」を『明星』に発表。
(出典:群馬県史 通史編 10 (年表・索引) 本編,pp336-337,1992、から抜粋)
戦争に直面する年でありながら、便覧には戦時の気配が微塵もなく、当時の前橋の様子が淡々と描かれています。
町列を眺めると、当時の人々がいつも使っていた食料品や日用品のお店、食事に行ったり出前を頼んだ料理店、たまには行きたい高級店、日用の様々な物作りを担う職人達など、日常の風景を垣間見ることができます。また、当時の行政施策(国立銀行、農工銀行、農会、通運会社等)や産業の動向(民間銀行、市場、倉庫会社等)を伺い知ることもできます。便覧の2年前、明治35(1902)年の前橋には、常設劇場が3、席亭が4(*)あったそうで、意外に楽しむ場所のある町だったようです。
*:前橋市史 第5巻,p496,1984
便覧は文字列なので、よくよく眺めないと実感しづらいところがあります。そこで参考として便覧の11年後(大正4(1 9 15)年)の前橋市街のパノラマ写真を示しておきます。
写真1「前橋商工案内 大正4年版」(1915)所収の「前橋市街」
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー)
榛名の左に見える森が県庁で、写真下部の中央付近から県庁方向に伸びる道が本町曲輪町通りです。榛名山の下あたり、通りのやや右に曲輪町の鐘楼が見え、その手前の通りを電気鉄道が走っています。下部のやや右よりから右カーブを描いて赤城方向に繋がる通りが桑町通りです。なお、同じ写真は国立国会図書館のデジタルコレクションでも閲覧できますが、さすが、県立図書館のこの写真のほうがはるかに鮮明です。
前橋の人口は、便覧の前年明治36(1903)年で41,714人。パノラマ写真の3年後大正7年(1918)年で58,320人*2)。多くの人たちがこの写真と同じ風景の中で暮らしていました。歴史に名を刻んだ明治19(1886)年生まれの若者たちも、明治11(1878)年桐生生まれの青年も、県内に初めて講道館柔道の道場を開いた柔道家も、日々それなりに忙しく、それなりに楽しく、それなりに悩みながら、この風景の中で暮らしていました。
この風景を見ると、120年前の前橋は今とあまり変わらないような気がします。違いは建物の高さと道幅くらいですね。
冒頭で述べたとおり、当初は、明治末期の町並みを現代の地図上に再現しようと作業を始めました。しかし、諸般の事情でやめました(詳しくは「閲覧上の留意点」をご覧ください)。その代わり、町列に現れる官公署、団体、新聞社、銀行、会社等の沿革や業務内容から、当時の社会の様子をざっくりと眺めて見ることにしました。また、古い絵図や空中写真を用いて町並みの変化をまとめてみました。
【わからないこと、など】
この作業を進める中で、いくつかの疑問に行き当たり、一応の推測などを行っています。
・前橋駅は、なぜ中心市街から遠いのか? 当初は「龍海院の傍」が予定されていたとか。前橋駅近傍の線路上にある東西各2箇所の変曲点は、駅位置の変更に由来するものではないか、と考えました。
・曲輪町の鐘楼は、江戸時代から戦中まで、現在の本町一丁目交差点の北西で時を告げていたそうです。しかし、大正時代の写真を子細に観察すると、どうやら一時期、市役所敷地内に移築されていたように見えます。
・「郷土望景詩」には「蟻地獄」「利根川のほとり」という詩が並んでいます。「蟻地獄」はどこにいたのか? そう、あの「林」です。
前橋で生まれ育ったのに、確信をもって回答することができない疑問が数多くあります。
おまけに、
・上のパノラマ写真はどのように撮影されたのか? とか、
・パノラマ写真の道路上にある2階建てくらいの高さの「何か」は何か?(*)とか、細かい疑問が...。
*拡大写真は「曲輪町通り」のページに掲載しました。
「わたしたちの昔のまえばし」には、まだまだわからないことが沢山ありそうです。
こんな内容です。おかしなところは、どうぞご寛恕ください。
*1:「群馬県立図書館デジタルライブラリー」や「「国会図書館デジタルコレクション」で閲覧できます。
*2:高木和人,明治前期の都市別人口の分析-『明治大正国政総覧』人口データの活用-,画像電子学会第7回デジタルミュージアム・人文学(DMH)研究会,pp23-27,2024.
公開 2025.8.1 manpei
2025.9.6 「波宜亭の写真」関連箇所更新