1946年 紺屋町付近
(国土地理院空中写真から作成)
群馬県監獄署の正門は北側にあります。したがって監獄裏は南側です。
はじめて「監獄裏の林」を見たとき、「昔は、刑務所の南側は林だったのか」と迷うこと無く納得してしまいました。
でも幼い頃の記憶では、刑務所の南側には水田が広がっていて、西端のあぜ道と河原との間の斜面には桑畑が広がり、それに沿って、あまり厚みの無い「まばらな林」(*)があった、という印象をもっていました。
幼い頃の記憶と「刑務所の南側は林」というイメージは大きく乖離していて、違和感をもち続けていました。
*「まばらな林」は、「監獄裏の林」の末尾近くにある「まばらに残る林」と同様の表現ですが、幼い頃の記憶では、まさに「まばらな林」でした。西端のあぜ道に立つと、まばらな木々の間から桑畑や河原を見すかすことができました。たぶん、なだらかな斜面の林を開墾して桑畑を作ったため、残った木々が「まばらに残る林」になっていたのだと思ってます。
その違和感が気になって、昔の監獄署の南側は実際どうだったのか、を確認してみました。
下の図は、監獄裏の地図(1910年、陸地測量部)と後の時代の空中写真(国土地理院空中写真)を並べたものです。
「(1)1910年」を見ると監獄署の南側は水田で、その西側に樹林と桑畑が広がっています。
地図中の黄色の破線ⓐは、「(1) 1910年」の地図上の広葉樹林の位置、ⓑは広葉樹林(北)と針葉樹林(南)の位置です。この破線ⓐⓑと同じ曲線を、「(2) 1942年」、「(3) 1974年」、「(4) 1980年」の空中写真にも概ね対応する位置に書き込んであります(厳密ではありません)。なお、空中写真を地図と比較する場合には補正作業が必要のようですが、ここでは補正は行っていません。
「(2) 1942年」を見ると、ⓐの林は失われているものの、ⓑの林は残っているようです。
「(3) 1974年」は、ⓑの林の様子がわかりやすくなっています。林の大きさは長さと幅を思い浮かべますが、この林は斜面の縁に沿った幅の狭い林です。撮影日が12月31日なので葉が少なくなっているのか、あるいは陽のあたり方なのか、林の大部分が白っぽくなっていて東の縁に沿ってだけ黒(影?)や緑(葉?)が見えています。ⓑの左側は桑畑で、右側の水田にも緑色が見えないのは、撮影が冬だからです。あらためて「(2) 1942年」を見直すと、ⓑの両側(桑畑と水田)がやや濃い色になっていて、たぶん緑色になっているのだと思います。
「(2) 1942年」と「(3) 1974年」を見比べると、30年たってもⓑのあたりはほとんど変わっていないように見えます。だとすると、たいへん飛躍しますが「(3) 1974年」の「監獄裏の林」ⓑは、萩原朔太郎が歩いた明治末期(「(2) 1942年」のおよそ30年前)とそう大きくは変わっていないのかもしれません。ただしⓐの林は、桑畑の開墾によるものか1942年以前には失われたようです。
「(4) 1980年」は撮影日が10月5日で樹勢が異なっているからなのか、ⓑの林全体が緑に変わっています。木々の位置や幅には変わりがないようにみえます。右側の水田は開発が進んでいます。
この一連の検討によって、冒頭で述べた「昔は、刑務所の南側は林だったのか」という思い込みは間違いだったことがわかりました。勝手な思い込みはよくないですね。1910年時点でも監獄署の南側は水田(*)でした。つまり萩原朔太郎が歩いた頃も。
*「氷島」詩篇小解の「監獄裏の林」では「麦畠」とされていますが、地図の表記は水田なので、二毛作による麦の時期を表しているのだと思います。
一方この検討によって、萩原朔太郎が歩いた「監獄裏の林」の面影が残されていそうな空中写真を見いだすことができました。現在の木々は100年よりも若そうですが、図中ⓑの樹木の領域は維持されているように見えます。もしかすると萩原朔太郎が眺めた「監獄裏の林」の姿を今でも一部残しているのかもしれません。もっとも、桑畑があった頃のやや荒涼とした雰囲気は失われていますが...。
図1 監獄裏の変遷(出典を加工して掲載)
出典は次の通り。
(1) 群馬県立図書館デジタルライブラリー所蔵「前橋及高崎近傍17号(共17面)」(大日本帝国陸地測量部/編 1910).
(2)、(3)、(4) 国土地理院空中写真。なお(2)は林を見やすくするため、明るさ、コントラストの調整を行ったせいか、雲がやや強調されてしまいました。
※撮影日は以下の通りで、樹木の生え方は季節による影響があります。
(2) 1942/05/14、(3)1974/12/31、(4)1980/10/05
監獄裏の西側、利根川の斜面に広がる桑畑には幼い頃の思い出があります。
小学校低学年のある日、F君の家に遊びに行くと「俺の秘密の場所を教えてやる」と言って、連れて行ってくれたのが監獄裏の林の桑畑でした。
並んだ桑の木の下には、すり鉢のような小さなくぼみが沢山並んでいて、桑の木から落ちた雨だれの跡に見えました。
F君は「蟻地獄だぜ」と言いながら穴のそばにうずくまり、「こうやって捕るんだ」と、左手で巣のそばの砂粒をつまみました。
すり鉢の斜面に少しだけ砂を落とし、しばらく様子を見て、それを3、4回繰り返すと底の砂が少し動きました。すかさず右手を空手チョップの形にして指先を砂に差し込み、穴の底よりも少し深いところから砂をすくい上げました。手の上の砂を左手で少しずつ落としていくと、見たことの無い小さな虫が現れました。
教えてもらったばかりの頃は巣を壊すだけでした。でも、だんだん上達して二人で沢山捕まえました。最後はそれぞれ二匹だけを空き缶に入れてもち帰りました。
そんな思い出です。
萩原朔太郎の「純情小曲集 愛隣詩編」は少年時代に作られた18編の詩が掲載され、その中に「蟻地獄」「利根川のほとり」という詩が、この順番で並べられています。
「蟻地獄」は、作者の心象を詠んだ、からっ、とした詩で、その末尾におかれた「蟲けらの落す涙」の3行は胸に迫るものがあります。なぜ「蟻地獄」をモチーフにしたのかはわかりませんが、次に続く詩が「利根川のほとり」となると...、そうです、「F君の秘密の場所」を思い浮かべずにはいられません。
つまり、萩原朔太郎は「監獄裏の林」を歩いて「利根川のほとり」に出るときに、あの沢山の「蟻地獄」たちを見たのではないか、と想像しています。また勝手な思い込みかもしれませんが。
F君の秘密の場所は、南町公園が作られて今はもうありません。
でも、萩原朔太郎が見たかもしれない、秘密の場所で生まれ育った蟻地獄の子孫たちが、今も南町公園の片隅で生き続けていればいいな、と思っています。