1946年 紺屋町付近
(国土地理院空中写真から作成)
停車場(前橋駅)から本町を結ぶ通りです。
この通りについては、資料*1)に町列および田中町の近年までの詳しい事績がまとめられています。また資料*2)には、資料*1)以外の資料からも引用した駅周辺の様子が記されています。
これら複数の資料も参考にしながら、明治末期の停車場通りの様子を整理しました。
なお、「明治末期の中心市街」で述べた、この通り北端の東へのカーブについては、このページの末尾で説明します。
下の図は便覧を簡略化してまとめた停車場通りの町列です。通りには、休憩所、宿、飲食店のほか人力車、運送店など駅前に特有な店舗が並んでいます。以下の文中で参照した店舗などは図中に赤文字で示しました。また方位記号は概略の方位としてご覧ください。
*1:入沢康平編,田中町百年の風雪,出版年不詳.
*2:平田一夫編,群馬の鉄道資料集:昭和23年(1948年)以降,例えばpp298-301,2000.
図1 停車場通りの町列
【停車場】
次の写真1は明治43(1910)年群馬県主催の「一府十四県連合共進会」の際に発行された前橋市案内*3)掲載の前橋停車場です。駅舎も駅前北口も、だいぶ小規模であることがわかります。
*3:前橋市案内,p73,1910.
写真1 前橋停車場(出典のp73該当箇所を抜粋表示)
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー所蔵「前橋市案内」(1910))
資料*4)によると前橋駅(前橋停車場)は、
明治17年(1884)8月、日本鉄道会社が上野-前橋間に鉄道を開いたが、この時の前橋駅は石倉町内藤分に置かれた。明治22年(1889)11月20日、両毛鉄道会社の手によって、小山ー前橋間(現在位置)が全通したあと、同年12月26日に利根川橋梁が完成して、両毛鉄道会社の前橋駅で、日本鉄道会社線が接続した。
とのこと。
日本鉄道会社は明治30(1897)年に両毛鉄道会社を合併、明治39(1906)年の鉄道国有法によって国有化されました*5)。したがって便覧の当時、前橋停車場は私鉄の日本鉄道会社によって運営されていました。また、前橋市史*6)の概要をまとめると、次のとおりです。
①高崎-内藤分延伸は前橋の有志による活動が大きく寄与(日本鉄道会社の株式募集に対する出金者には、「波宜亭」主人の名がある)
②栃木と群馬を結ぶ鉄道敷設は両毛の有志による活動が大きく寄与
③当初、内藤分から曲輪橋(注) に至る道路建設を予定したらしい(注:県庁の南側直近で利根川に架かっていた橋)
④鉄道線路用地も買収しており、停車場の予定位置は石倉南端ではなく林倉寺付近(注)であったとも考えられる(*県庁の南側対岸)
⑤内藤分から中心市街への延伸は利根川があるために、鉄橋を容易には架設できなかった
⑥前橋駅は、小山ー前橋間の鉄道の駅として開業した後、明治22年(1889)の利根川橋梁の架橋により、内藤分経由で高崎、上野と結ばれた
前橋駅がなぜ田中町に設置されたのか、それを記録した資料にはたどりついていません。ただし、資料*7)には次の記述があり、当初は別案もあったようです。
両毛鉄道の出来まする時も、停車場は龍海院の傍と極まって居たのでありましたが、下村や自分などが田口社長の處などへも参り、種々奔走致しましたので、漸く今の場所に変更されたのであります。
※資料*2)のp295に、この記述の引用があります。こちらには「自分(今井)」と注記があります。
この「龍海院の傍」が北の曲輪橋経由を指すのか、南の利根橋経由を指すのかは判然としません。
龍海院の北、あるいは南が候補地だったのならば中心市街にも近いのに、なぜそれよりも遠い田中町南端にしたのか。資料*6)によると、駅は田中町の最南端に設けられたそうなので、例えば用地取得の費用を抑えるために郊外に近い今の場所に設置したのかもしれません。でも陸地測量部の明治43(1919)年の地図(資料*8:図1)を見ると、その時点でも龍海院は桑畑や水田で囲まれていて、いわば「郊外」のようにみえます。
*4:前橋事典,p102,1984.
*5:日本の鉄道網構築にも尽力した渋沢栄一、鉄道を学問する vol.5【経済史】、https://www.kokugakuin.ac.jp/article/294234
*6:前橋市史 第4巻, p990-997,1978.
*7:豊国義孝,故下村善太郎翁と未亡人ー(下),pp40-44,上毛及上毛人 (11),1917.
*8:大日本帝国陸地測量部 /編,前橋及高崎近傍17号(共17面),1910.(注:17図幅中「前橋」)
図1 前橋龍海院周辺の土地利用(1910)(出典の龍海院付近を抜粋表示)
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー所蔵「前橋及高崎近傍17号(共17面)」(1910))
次の図2は国土地理院の地理院地図を加工したもので、外側の図が前橋と伊勢崎、高崎をつなぐ広域の線路を示しています。伊勢崎駅付近の両毛線、高崎駅付近の両毛線、上越線、信越線はゆるやかなカーブを描いていて、前橋駅東西のような駅に近接した屈曲(青色矢印)はありません。
内側の図は、前橋駅付近を拡大したもので、線路の変曲点に①~④の番号を付しました。東西とも2カ所の変曲点をもっています。このうち①は明治17(1884)年に設置された内藤分の旧前橋駅です。鉄道が当初から現前橋駅(旧田中町南端)を目指していたのならば、現在の新前橋付近から線路を東にカーブさせたほうが素直に現前橋駅に接続できそうです。旧前橋駅が、より北の内藤分に設けられたのは資料*7)に記されたように、当初「停車場は龍海院の傍」が予定されていたからのように見えます。その予定を変更したため、変曲点②を介して現前橋駅に接続することになったのではないでしょうか。同様のことが東側でも生じていて、伊勢崎からの線路は④でやや西に進路を変え、最終的に③によって現前橋駅に接続しています。しかし④で現前橋駅を目指してもっと西に曲げておけば、③の変更は不要に思えます。このように変曲点①②と③④は東西で呼応しながら現前橋駅に接続しているように見えます。
資料*7)に引きづられた強引な推論かもしれません。また仮にそれが正しいとしても、結局、駅はなぜ前橋の町から遠いのだろう、の答えにはなっていないようです。
図2 現前橋駅周辺の線路(↓及び①~④は駅付近の線路の変曲点)
(国土地理院 地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)該当箇所を加工して掲載)
次に、町列の東南側(町列図の右下)から北へ特徴的な店舗等について説明します。
【東:人力車組合駐車所】
駅近くの東側には人力車組合駐車所があります。資料*9) によると次の通りです。
明治30年頃、「田中町76番地、車夫200人、1日交替で、1組の半分は客を停車場に待つ。他の半分は集合所から停車場までの間で、客を待つことにしていた。」
*9:萩原進,群馬県史 第2分冊 経済・産業篇,p166,1959.
駅前の主要な会社としては、上毛倉庫株式会社があげられます。大正期の資料*10)によると、当時の業務概要は次の通りです。
【東:上毛倉庫株式会社】
上毛倉庫株式会社は前橋市に在り。明治二十九年の設立に係り、資本金二十万円(払込資本金十二万五千円)、保管可能石数は七万七千石に達す。主として乾繭の保管をなし、乾繭の設備も存すれども、製絲家は多く自己の製絲場に於ける乾燥場にて購入したる生繭を乾燥したる上寄託するを普通とす。ここに寄託せらるる繭の大部分は前橋市交水社系の製絲家によりて占められ、他の小部分は各小製絲家の寄託にかかる。而して寄託物は本繭を其の最とし、玉繭其の他之に次ぐ
*10:東京商科大学一橋専門部会編,開黌五十年記念学生論文集,pp358-359,1926.
その北側には広い空間があります。この一部は資料*1)によれば栗間梅林と呼ばれていたとのこと。昭和40年当時にはセントラル映画劇場(後の文映でしょうか)やクリマ電気店があったところのようです。
北端近くには「點燈業」とありますが、資料*11)によると、
点燈商会~が、ガス燈の会社を開き(28年4月)夕方になると脚達をかついだ点燈夫が、ガス燈に灯をつけるという情緒のあった〜
とのこと。当時の前橋は、ガス燈と電灯が併行していたそうです。
*11:萩原進,群馬県史 第2分冊 経済・産業篇,p287,1959.
次に町列の西側(図の左側)について、
【西:馬車鉄道待合所】
駅の近くには、「馬車鉄道待合所」があります。資料*12)から馬車鉄道関係の概要を要約すると次の通りです。
・明治22(1889)年、岩神村に本社を置く民間運輸業の会社として上毛馬車鉄道株式会社が創設され、前橋細ヶ沢の北に岩神停車場を置き、現在の国道17号の路面にレールを敷いて渋川の新町の停車場の間を結んだ。前橋駅と岩神停車場の間は一般の馬車で連絡した。
・明治39(1906)年7月に前橋馬車鉄道株式会社に社名が変更され、細ヶ沢と前橋駅の間も鉄道で結ばれた。(注:便覧は明治37(1904)年なので、この待合所は岩神までの一般の馬車を待つ場所ということになります)
・明治42(1909)年10月9日に利根発電株式会社の営業開始とともに電化され、前橋電気軌道株式会社と名称変更された。
・昭和2(1927)年東武鉄道株式会社の手に移り、昭和28(1953)年に運転休止、同29(1954)年廃線。
*12:前橋市史 第4巻,pp1052-1056,1978.
次の写真2は道路の中央に軌道が写っていますので、明治39(1906)年以降の写真です。なお、写真中の黄色矢印は、後で説明します。
写真2 大正時代の駅前通り(出典を加工して表示)
(出典:平田一夫、大正末から昭和の初め 平田松平写真集,p1 大正時代の駅前通り,1990.)
この写真から、駅前通りが現在と比べてとても狭かったことがわかります。前述の資料*1)p45によると、駅前通りは当初6間道路(幅約10.9m)だったものが、大正14(1925)年前橋開催の全国山林大会に向けて12間道路(東側を6間広げた)になり、さらに戦後になって24間に拡幅されたとのこと。つまり写真2の駅前通りの幅は、現在の1/4程度のようです。
【西:前橋共同広告掲示場:写真2】
駅近くの「前代田通」北側には、「前橋共同広告掲示場」があります。この実態がわからなかったのですが、上の写真2に広告看板(黄色矢印で指示)が写っていて、これが掲示場なのかもしれません。この写真の正確な年代は不詳で、前でも述べたように明治39(1906)年以降のようですが、手前の運送店も便覧に掲載されているので、便覧の年とあまり遠くない時期の写真だと思います。
【西:内国通運田中町荷扱所】
内国通運は後の日本通運で、本町に前橋支店があるため、概要はそちらで説明します。
【西:歌舞伎座(見附)/前橋歌舞伎座】
やや北寄りに「歌舞伎座(見附)」という小路があります。これは停車場通りの西側に並行する南北の通り(歌舞伎座通り)にあった「前橋歌舞伎座」に通じる道です。前橋歌舞伎座については「他街路の施設等」に概要を示しました。
明治末期の停車場通り北端
便覧の略図では、駅前通り北端は右(東)にカーブしながら本町通りと丁字路を構成しています(下の図3、便覧掲載の前橋市略図をトレースして表示)。そして、この丁字路正面に油屋旅館が位置しています(下の図4、便覧の該当箇所をトレースして表示)。また、この右カーブは、「明治末期の中心市街」に抜粋を示した明治43(1910)年の前橋市街全図にも示されています。
このカーブについては、前に引用した資料*1)、*2)に次の記述があります。
*1)田中町と相生町との接続点とも云うべき現在の蛇の目ミシンの先から、右方十五度程折り曲って、現在の油屋旅館に真正面に向って居ったもので、現在の様に真すぐになったのは、大正期の末である。(資料*1、p71)
*2)駅前通りは現在の三分の一にも足りないほど狭く、駅を出て北進すれば相生町のあたりで右に少しカーブして、本町の「油屋旅館」につき当たって丁字路になっていた。(資料*2、p299)に引用された「若林侍郎、うろおぼえ前橋今昔抄、1965」より)
図3 北端の右カーブ
※出典の概略トレースと一部改変、抜粋(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー所蔵「群馬県営業便覧」(1904)掲載「前橋市略図」)
図4 丁字路
※出典から該当箇所を抜粋しトレース(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー所蔵「群馬県営業便覧」(1904)、前橋町列p6)