1946年 紺屋町付近
(国土地理院空中写真から作成)
竪町通りから県庁に至る通りで、便覧では「県庁前通り」と記載されています。現在の「朔太郎通り」で、昔は「県庁通り」「裁判所通り」とも呼ばれていたようです。神明町や曲輪町に通じる道とも交差しています。県庁前ということで、曲輪町通りと同様、官公署や新聞社が位置しています。
明治末期の道路の情報や、掲載できる古い写真は入手できませんでした。写真集の中に大正時代の写真が1葉存在し、資料*1,*2)で閲覧可能です。前者は国会図書館のデジタルアーカイブ、後者は、群馬県立図書館や前橋市立図書館に所蔵されています。この資料*2)のp16では「裁判所通り」の説明として「道も広いようにみえるが現在の半分以下であろう」と記されています。
朔太郎通りをGoogle Earthの定規で測ると幅員は13m(7.2間?)ほどなので、その半分というと約7m(4間)くらいの道幅だったということになります。現在の車道部分くらいの幅です。
*1:目でみる群馬県の大正時代2,p22,1986.
*2:丸山知良編,写真集 明治大正昭和 前橋 : ふるさとの想い出87,p16,1979.
下の図は便覧を簡略化してまとめた本町通りの町列で、図に沿って、この通りにあった主要な官公署等を概説します。なお、以下の文中で参照した箇所は図中に赤文字で示しました。また方位記号は概略の方位としてご覧ください。
図1 県庁前通りの町列
まず図の左側(北側)の町列を図の上側(東側)から、
【北:医士】
萩原朔太郎の父、萩原密蔵氏が営む医院が、ここにありました。
資料*3)に記載された、密蔵氏の事績を要約すると次のとおりです。
・安政4(1857)年10月河内の志紀郡南木本村の漢医の家に生まれ、一時教員となったが、その後東京に出て明治医学校、東京大学医学部に進学。
・明治15(1882)年1月下旬群馬県立病院に勤務し、同年12月副院長。
・明治17(1884)年、医術開業試験委員に任ぜられる。
・明治18(1885)年県立病院廃止の後は伊香保浴医局長として勤務。
・明治18(1885)年11月前橋で開業。
・明治19(1886)年8月検疫係医師として郡役所から嘱託され、以後8年間無料で種痘を行った。また県庁の委嘱によりコレラ病視察や中毒患者取調のため県下の巡回を複数回行うなど公共事業や慈善事業につくした。眼科を得意とした。
*3:佐川翠芳,上州人物史第1編,pp54-56,1895.
【北:看護婦会組合(前橋看護婦会組合事務所)】
資料*4)には、次の記載があります。
・竪町松坂屋横町後藤病院と相対して在り、~常置看護婦十数名あり以て市内外の応急に備う。
資料*4)は明治40(1907)年の出版なので、看護婦会の場所が移動している可能性もありますが、竪町通りに松坂屋という旅館があり、その南に北曲輪町に通じる小路があります。その小路の先に「前橋看護婦応需所」との記述があり、代表者が資料*4)と一致しています。したがって、この応需所が看護婦会組合に対応しているようです。
・なお、資料*5)に前橋看護婦会が大正5(1916)年11月5日発足とありますが、明治37(1904)発行のこの便覧の町列には既にその名称が記載されています。
*4:前橋繁昌記,p191,1907.
*5:群馬県史 通史編 10 (年表・索引) 本編,p353,1992.
【北:上州新報社、写真1】
資料*6)によると、創刊年に異同があるようですが、同社では「明治29(1896)年創刊」としているようです。また県庁の統計資料(未確認)では明治31(1898)年の記録として「発行所前橋市北曲輪町72 上州新報社、毎日刊行、年間部数45万0.000部(ママ)」とあるそうです。
「用紙は普通の白い紙を用いず、赤新聞といわれた桃色の用紙を使った(注・大正時代に入って普通の用紙となる)」そうです。
「戦時中の新聞統合で上毛新聞に合併」されました。
また、「萩原朔太郎などもしきりに投稿した」そうです。
*6:前橋市史 第5巻,pp391-392,1984.
曲輪町通りの鐘楼について書かれた坂梨春水氏は同社の社員で、文章中にも萩原朔太郎宅を訪ねていたことが書かれています。
写真1 上州新報社(出典のp23該当箇所を抜粋表示)
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー所蔵「前橋市案内」(1910))
【北:巡査教習所(群馬県巡査教習所)、写真2】
この巡査教習所の直接的な資料は見つかりませんでしたが、資料*7)に記載された巡査教習所の教習所規則には以下の記載があり、警察学校のようです。
・本所は専ら巡査たらんと欲する者をして其職務を練習せしめ兼て又巡査を訓誠するの所とす故に一は生徒と称し一は教戒巡査と称し以て之を二別す。
*7:警視局出版巡査教習所編,巡査教科書 乾,p59,1880.
写真2 巡査教習所(出典のp49該当箇所を抜粋表示)
(出展:平田一夫,大正末から昭和の初め 平田松平写真集,p49,1990.)
【 北:区裁判所、地方裁判所(前橋区裁判所/前橋地方裁判所)】
沿革の資料が見つからなかったため、前橋地方検察庁のホームページ*8)を参考に概要を要約して示します。
・明治4(1871)年7月司法省設置、同5年8月5日太政官達をもって府県裁判所が設置され、逐次全国府県裁判所・区裁判所が設置された。8月12日群馬裁判所が旧藩庁で事務を開始。明治14(1881)年10月1日前橋市北曲輪町(現在の裁判所庁舎の敷地の一部)に竣工された庁舎に移転(このときは熊谷地方裁判所前橋支部だった)。明治23(1890)年11月1日施行の裁判所構成法により、前橋地方裁判所及び区裁判所と改称された。
*8:前橋地方検察庁>前橋地検について 沿革 https://www.kensatsu.go.jp/kakuchou/maebashi/page1000001.html
次に、図の右側(南側)ですが、こちらは群馬県農会だけ説明します。
【南:群馬県農会/群馬県物産陳列所、写真3】
資料*9)の記載を要約すると、次の通りです。
・明治27(1894)年群馬県農会仮規定を制定し、28(1895)年農会設立準則を発して各郡町村に農会設立を督励し、29(1896)年郡市町村農会設立後、同年7月下旬を以て県農会を組織し、8月1日に発会式を行った。(p1)
・事業として会報の発行、講習会及び講話会の開催、耕地整理の勧誘指導、農事調査等があげられている。なお、事業の一つに農蚕業器具器械生産物、統計図表類陳列所の設置があげられており、農商務省から陳列所の設置を命ぜられ、すでに設置済みであることが記載されている。(pp32-39)
*9:群馬県農会一覧,p1,pp32-39,1910.
写真3 県農会庁舎(出典のp49該当箇所を抜粋表示)
(出展:平田一夫,大正末から昭和の初め 平田松平写真集,p49,1990.)
【西: 群馬県庁、写真4】
群馬県庁は、当初、高崎に設置されましたが、紆余曲折と前橋の誘致運動によって旧前橋城に設置されることになりました。その経緯は群馬県史をはじめとする様々な資料に記載されているため、ここでは割愛し、旧前橋城廃却の理由と当時の勤務形態だけかいつまんで記載しておきます。
[廃城の理由]
資料*10)によると、明治4(1871)年12月、東京鎮台本営管下の9カ国の城郭について、兵部省出仕職員が巡回調査を行ったあと、築造局から前橋城については次の報告がなされています。
・四野開豁かつ城地及市中高燥ノ地ナレトモ地勢佳ニシテ要害兼ルハ高崎に譲る可シ故に廃シテ如何
*10:森山英一,名城と維新:維新とその後の城郭史,pp123-124,1970.
[廃城後]
旧前橋城の廃城後、土居や堀、建物を破却して通路と曲輪町の町並みを作ったので、何らかの方針があって曲輪町通りや県庁前通りが作られたはずですが、その間の経緯を解説した資料にはたどりつけませんでした。
資料*11)によると、
「明治2(1869)年6月の版籍奉還後、本丸以外の城内の土地は、町民に開放され」、曲輪町、北曲輪町、南曲輪町となりました。この区域の輪郭は「再築された旧前橋城の輪郭をそっくり残す」ことになったとのことです。
*11:前橋の旧町名,pp11-12,2019.
[勤務形態]
第一次群馬県時代(明治4(1871)~6(1873)年)の記録ですが、資料*12)によると、当時の県庁の勤務形態は次のとおり。
・出庁 午前9時、退庁 午後3時(6時間勤務)
・夏は80度(華氏、摂氏約27度)以上の時、出勤時間を変更できた
・休日は、祝日、1/1~3、6/28~30、12/29~31、
毎月1,6の日(1,6,11,16,…)
*12:萩原進,群馬県史 明治時代第一分冊 政治・行政篇,p11,1959.
写真4 群馬県庁(出典の該当箇所を抜粋表示)
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー所蔵「前橋市案内」(1910))