1946年 紺屋町付近
(国土地理院空中写真から作成)
群馬県営業便覧*1)(以下、「便覧」)の前橋のページには、冒頭に「前橋市略図」(以下、「略図」)が掲載されています。この略図をみたところ、県庁周辺の区画に違和感があり、それが前橋城の区画の名残かもしれないと調べてみました。しかし、どうやら略図の誤記らしいというがっかりの結果に終わりました。
ただ、その課程で、
・明治末期の中心市街の町割りが江戸時代とほぼ変わらないこと、
・お城が巨大であったこと、
を実感したので、まとめておくことにしました。
城内の様子は、群馬県立図書館デジタルライブラリーで見ることができるのですが、城外の町並みまで描かれた絵図は限定されます。
ここでは、資料*2)をトレースして江戸時代の町割りを示しました(以下、「絵図」)。町名などは文字を判読する際に誤読があるかもしれません。また、粗いトレースなので、完全に再現したものではありませんが、当時の町割りはよくわかると思います。
*1:群馬県営業便覧,明治37(1904),「群馬県立図書館デジタルライブラリー」や「「国会図書館デジタルコレクション」で閲覧できます。
*2:前橋外曲輪御絵図 天和4年12月7日(前橋市立図書館所蔵資料 /製作年不明)、群馬県立図書館デジタルライブラリーで閲覧できます。天和4年は1684年です。
図1 「前橋外曲輪御絵図 天和4年12月7日」概略のトレース図
(出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー/前橋市立図書館所蔵資料)
絵図の中で、便覧と異なる表記の町名は次の通りです。括弧内が便覧の町名です。板屋町(立川町)以外は、ほぼ一致していると思いますがいかがでしょうか。
・向新町(向町)
・横町(横山町)
・下之町ノ内立町(竪町)
下之町は、「横町、竪町、桑町」を合わせた古称だそうです。
・桑木町(桑町)
・板屋町(立川町)
・萱屋町(萱町)
・天川新町(新町)
こうしてみると明治末期の前橋の町名は、新住居表示になる昭和40年代まで江戸時代の町名をほぼ引き継いでいることがわかります。
十代の頃、前橋の町はなぜ駅から遠いのだろう、と不思議に思ったことがありました。でも城下町前橋はすでに江戸時代にあの位置に町並みができあがっていたわけで、むしろ、駅はなぜ前橋の町から遠いのだろう、と考えるべきだったのかもしれません。
この絵図からあらためて実感したのは、お城の巨大さです。曲輪町という町名から曲輪の中にあったということは頭ではわかっていたつもりでしたが、この絵図であらためて実感しました。
その区画は現在の範囲でいうと、おおよそ、
東は国道17号か連雀町通り(恵比寿通り)、
西は利根川、
南は群馬大橋通り、
北は旧関口病院~聖マッテヤ教会~るなぱあく、あたりの範囲。
特に東端は現中央通りのえびす坂と片原通りに囲まれる区画まで曲輪内だったようにみえます。大手門は現東京電力あたりでしょうか。
近年、自転車の通行帯が道路上にペイントで描かれていますが、お城の輪郭を道路や歩道に描いてみると、その巨大さが、よりわかりやすくなるかもしれません。
資料*3)から、お城の様子を要約すると、次の通りです。
~幕末のころ、内外の事情が騒然となると、幕府は松平氏の申請を容れて前橋城の再築を許可し、慶応3年(1867)年完成して松平直克が入城した。
新城は日本伝統の築城法を基本とし、ヨーロッパ式の手法を加味して築かれた。~全体は江戸城、姫路城と同じ渦巻状構造で、日本式築城法の理想型だった。~県庁の北部にのこっているように、土居は高く幅が広く、外からは建物が見えず、御殿屋上の望楼だけが僅かに突出しているだけだった。これは大砲の攻撃に備えた処置で、当時の大砲はすべて直接照準でなければうてなかったからである。~再築前橋城は、日本最後の日本式城郭だったのである。
資料*4)には、昭和30年に撮影された県庁西側の濠の写真が掲載されています。お城の濠の多くが埋められたのは昭和30年代になってからのことだそうです。
*3:教材群馬の文化財 3 (近世・近代・民俗編),p5,1982.
*4:写真集 明治大正昭和 前橋,p27,1979.